概 要


 ・建築年月 江戸・明治末期(詳細不明)

 ・構造    木造二階建て 入母屋造瓦葦

 ・延建坪数 母屋 57.15坪
       内訳 一階40.7坪(134.3㎡)土間11坪含
           二階16.45坪(54.3㎡)
           天井裏部屋10坪(33.㎡)
           別棟(台所・風呂場)6坪(19.8㎡)

  江戸・安政四年(1857年) 依田伊祖右衛門 酒造業を営む安政時代の古地図に屋敷跡地が明記されている。
  明治38年奥野親氏営業を引き継ぐ。平成21年8月廃業。
  次世代に150年前の造り酒屋を保存するため買い取る。
                 





奥野家住宅(旧二葉屋酒造店居宅)


 

 ・建築年月  大正初期(年代不詳)
 ・構造     木造二階建て 入母屋瓦葺
 ・延建坪数  母屋 57.15坪  内訳  一階 40.7坪(134.3㎡)(土間11坪を含む)
                         二階 16.45坪(54.3㎡)
                         天井裏部屋10坪(33㎡)
                         別棟(台所・風呂場)  6坪(19.8㎡)

  奥野家は、旧市川大門町に在った造り酒屋三件のうちの一軒で、清酒『栴檀』を年間482石3斗を醸造し、販売していました。
 もともとこの地は、安政四年依頼、依田伊祖右衛門という人が酒造業を始めそれから代代家業を引き継いできました。しかし、家運が傾き店を閉じました。その後明治38年に、同じ酒造家の出身の奥野親氏が営業を引き継ぎ、二葉屋奥野醸造店として酒造業を営みました。しかし、時代の趨勢には勝てず、再び店を閉じることになりました。


 家屋は道路に面して建てられていますが、敷地の間口一杯に建ててあります。敷地は間口が狭く奥行きが長くなっています。これは、江戸時代間口の幅によって税が課税されたためで、当時の絵図面にはすべて道に面したところは狭く奥行きの長い屋敷になっています。現在も市川大門地区には、各所に時代の名残りの屋敷が存在しています。
 奥野家の間口が狭いといっても、普通の商家の二倍以上はあります。


*それでは、奥野家の家屋の概要を説明します。

 先ず、外観から。木造二階建て瓦葺き入母屋造りで、特に棟とり瓦は、基を広くおとり高く積み上げ重厚な作りになっています。二階の軒は黒い漆喰で露出した材木をすべて塗り籠めてあります。これは蔵造りの一部を取り入れて、見た目にどっしりする演出ではないかと思われます。また、隣家と接する両端の壁も土で塗りくるんであります。これは防火対策です。

 玄関の右手に幹がぼくぼくと盛り上がった古木があります。この木は栴檀です。奥野家のシンボルです。「栴檀は二葉より芳し」のたとえにより、屋号を『二葉屋』醸造酒の銘を「栴檀」としました。

 玄関を入ると幅の広い土間が続きます。これは、奥の酒造所に材料などを馬車などで運び込むために広くとり、天井も高くしてあります。

 玄関左側の外に戸袋があります。この戸袋の外装は、洗いだし御影といって、白と黒の細かい石の粒をセメントで塗り合わせて塗りつけ、セメントが乾かないうちに水で洗って御影石の感じを出したものです。現在この工法はあまり使われていなく貴重なものです。

 土間の中ほど右側に太い柱が見えます。この柱が大黒柱で、建物の中で重要な位置を占めています。材料はケヤキで太さは一尺三寸あり角も丁寧に面取りしてあります。表面の艶は、唐辛子油で、手間をかけて磨きだしたものです。


 玄関を入って右手に店がしつらえてあります。ここで酒の小売をしていました。後ろの棚には、通いの一升徳利がならべてあります。また、徳利などを洗う流しもあります。店の外側には朱色の『べんがら格子』がはめ込まれています。今は朱色も褪せて当時の面影をわずかに留めていますが、昔はかなり目立ったではないかと思います。


 寄り付きの間に二つの額が掲げてあります。筆をとったのは、画家でもあり書家でもあった中村不析で、栴檀の文字は竹を砕いて柔らかくした『竹筆』で書かれたとのことです。二つの署は、奥野家滞在中に揮毫されたとのことです。


   中村不析の略歴
      慶応02年 江戸京橋の生まれ。名は鈼太郎。
      明治03年 母方の郷里信州高遠に移住。
      明治20年 飯田小学校の図画、数学の教師となる。
      明治41年 健筆会を結成。
      大正08年 楷書千文字外2冊を刊行。
      大正11年 森鴎外の墓碑銘を揮亳。
      昭和07年 書道博物館の建設に着手。同11年に完成。
      昭和18年 6月脳溢血で死亡。 享年78歳



 寄り付きの間の隣は家族が食事や団欒する居間です。北側の長押上に立派な神棚がしつらえてあります。
祀られているのは当家の氏神と、酒の神様「松尾神社」ではないかと思います。目を上に向けると明かりとりのための天窓があります。


 次の間に入ります。この部屋に入って気がつくことは広いことと天井が高いこと。広さは十二帖半あり、天井の高さは十尺五寸(3m50cm)あります。天井を高くしたことの理由としては、構造材を太く厚い物を使い、壁も暗い色にしたため圧迫感があります。それを取り除くための工夫として天井を高くしたものと思われます。内縁をを挟んで中庭に対面しています。内縁の端にある戸袋も外装が変わっています。こちらは漆喰で塗りかためています。長押しの中央四か所には、釘隠しの装飾金具が取り付けてあります。座敷との境の欄間にはには、千本格子がはめ込まれています。天井の棹縁も間隔を狭くして装飾されています。


 座敷は書院造になっています。正面左に床の間、その右に脇床が取り付けられ、脇床には違い棚と小さな天袋が作り付けています。違い棚を結ぶ「くにづき」には小さいながらも透かし彫りがなされています。天袋には、はっきりとはしませんが、富士山の風景が描かれています。床の間の壁は砂壁ですが、くらい緑色でところどころに金粉らしいものが見受けられます。書院の障子の桟は、手間ひまかけて作った細かな吹き寄せ細工の格子になっております。現在各所に痛みが見えますが往時の面影が残っています。座敷の長押しに次の間と同様に釘隠しの金具が取り付けてあります。座敷も内縁を挟んで中坪に面しています。中坪はそれほど広くはありませんが、石組された小さな池もあります。錦鯉が放たれていたことでしょう。

 書院のわきを左に折れて廊下を進むと手洗いに続いて上雪隠(便所)があります。ここの天井の作りも、また、変わっています。小便所と大便所を区切る中央の柱から棹縁が四方に放射線状に組まれています。大便所の入口の扉の上部にも模様を透かし彫りにし板が使われています。


元に戻り居間の隣の台所を見てみましょう。広さは八帖くらい。ここと隣の風呂場は母屋とは別棟でつながっています。床は居間より一段低くなっています。現在は立派な流し台とレンジが取り付けられていますが、むかしは木製の流しとおおきな竈があったと思われます。天井はなく梁がむき出しになっており、その梁が煤で黒くなっています。食器棚の上には火伏せの神の三宝荒神を祀った小さな神棚があります。


 風呂場は台所に続いており、広さは四帖ほどあります。窓下と床はすべてタイル貼りで浴槽は、現在樹脂製の舟形の物が置かれていますが、昔は大きな五右衛門風呂があったかと思われます。風呂場の天井は網代になっています。これは網代の隙間から水蒸気を逃がして天井の結露を防ぐためです。


 二階に登ってみましょう。一階座敷の書院の脇に階段があります。回り階段の一部に不具合のところがあります。注意してください。階段の踏み板にも滑り止めの工夫がなされています。階段の手摺りを見て下さい。ここにも装飾が施されています。手摺りに二枚の細い板が付けてありますが、その上面がデコボコしています。これは木の肌の凹凸を利用したのか、人工的に作ったものかはっきりしませんが、とにかく装飾の意味で用いられたものと判断します。踊り場には壁をくり抜いた丸窓があります。壁の下地の小舞がむきだしになっていますが、これは黒竹で、装飾用に蔓をからませてあります。


二階には二部屋あり、特別な客のために作られたと考えられます。次の間、ここの天井をご覧ください。他の部屋の天井とは違います。まず、板の幅三尺長さ六尺のものを使っています。木目は玉杢で、ケヤキの一枚板です。少し厚めの板を魚を二枚におろすように断ち割り、それを開いた形にして天井に張り付けています。板と板は重ねず突きつけ工法を用いています。座敷の天井も同じ方式で仕上げてあります。目を上に向けたついでに座敷との境の欄間を見て下さい。お目出度い松竹梅の絵が透かし彫りではめ込まれています。欄間絵は通常両端を壁に塗り込めるか、または、枠に固定して取り付ける方式で取り付けられるものですが、この奥野家の場合は、四角の縁のなかに更に鳥居型形の縁取りをしてその中に納めて四方に空間を作ってあります。また縁も細い材を使っています。このようにすることにより、威圧感をなくし、欄間絵を浮きださせる効果が出てきます。


 座敷。この部屋の特徴は、床の間にあります。中心に七尺の広い床の間をとりその左右に脇床を設けています。床柱、床かまち、落とし懸は全て黒柿を使っています。ご覧のように黒の譜が入った柿の木は滅多になく、とても貴重で高価なものです。その他に黒柿は脇床の天袋、地袋の戸の縁材としても使われています。床の間の壁は、一階の座敷の床の間と同じ材料の砂壁ですが、一階の座敷と違ってきらびやかさがない古代紫調に仕上げ、「寂び」を表しています。足元を見ると、なにか異変に気づくはずです。そうです。畳の大きさが一枚違います。床の間の前に敷いてある畳です。この畳は長さが床の間と同じ七尺あります。これは、刺し床といって畳の合わせ目が床の間の前に来ると縁起が悪いとのことで合わせ目を脇床の境にしたためです。従って床の間の前の三枚は普通の一帖、半帖とは大きさが異なっています。
 天井も刺し床を嫌い、床の間と平行に棹縁が張られています。


 つぎは屋根裏部屋です。ここは一端土間に降りて、別の階段を上ります。
土間の大黒柱の反対側に屋根裏部屋に通じる階段があります。広さは20帖位。板敷で一部に畳が敷いてあります。ここは生活空間でなく物の収納場所として作られたものです。ただ畳敷きのところは従業員の休憩場所か、仮眠に使用されていたかもしれません。


 この奥野家の特徴は、一階は柱、鴨居、敷居などすべての材料が太くて厚い物を利用して重厚感をもたせてありますが、反面二階はそれに比べて柱も細く、威圧感はありませんが、厳選された材料で仕上げ、繊細の中に美と優雅さを求める隠れた演出法をとっています。
 また、一般の家屋は階段室を家の中に組み込んでいますが、この家は独立した塔屋の形をとっています。
 床板(床の間の板)と、違い棚板、廊下は全てケヤキ材を使用し床板(とこいた)については、厚み一寸以上のものを使い、幅も三尺の広い物を使っているところもあります。二階の窓に使われている板ガラスは、明治末期から製作された模様ガラスを使っています。


 これで建物についての概略の説明をおわります。いずれにしましても、この建物は、材料に贅をこらし、手間も暇も惜しまず建てられたもので、財力があってこその物と思われます。建築様式、材料の選択、使用場所すべてを含めて文化財的な価値あるものです。皆さんのご協力を得ながら保存に力を注ぎたく思っています。



この家の当主、奥野親さんの弟の肇さんは、現東京都知事の石原慎太郎氏は、湘南中学校において教師と教え子の関係の親交があり、当時ぐれていた石原知事が、肇さんに感化さ立ち直ったとのことです。このことの経緯を記した記事が「私が好きな日本人」という著書のなかに載っています。肇さんの死後、石原知事がこの奥野家を訪れ遺品を戴いて帰りました。そんな関係で、奥野家のほぞんについての処置に対する礼状も頂いております。そのコピーが寄り付きの間に展示してありますので、ご一読ください。





             







文化の伝承と企業の役割



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『だから、わたしはこのまちが好きです』写真コンテスト


 
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