花園院
市川本町駅より南に急坂をのぼったところです。
 市川の方から「おきょういん」と呼ばれ親しまれています。
 平塩寺の過去帳が伝えられており、現在の建物は宝暦9年(1772)に建立されました。
 高い屋根がなだらかな勾配になっており、入口に唐破風の屋根があります。正面玄関から東側が本堂やお座敷で、西の方が庫裏となっています。正面玄関の奥は、10畳ほどの座敷で、奥が方丈の間、その右が本堂となり、その隣が座敷と奥座敷になっています。奥座敷の出書院になっており、厚いケヤキの板です。屋根はカヤ葺でしたのを昭和35年頃にトタンで覆っていましたが、平成14年には銅板にしました。お庭に深い井戸があり市川の町並で掘る井戸の水脈と同じ所まで届いていると言われています。
 市川大門町誌によると、花園院の開山は、慈恵大僧正(平塩山白雲寺の天台宗の開基)だそうです。中興の祖は菜食腎尊と謂れ、その後市川の生まれの暁善が村松与左衛門等の帰依により、寺宇を天正年間に再建します。貞享9年(1772)に建てられ現在に至っているそうです。
 暁善住職を初代とし、現在の伊丹信匡住職は、34代だそうです。明治の廃仏毀釈の影響もあり、一時無住の時もありました。真言宗で、本尊はお釈迦様です。4月の8日前後の日曜日に花祭りのお祭りがあり、雅児行列が行われます。
 このお寺にある平塩山白雲寺の過去帳は、市川大門町の文化財で、寛政4年に武家神務兼帯刑部三郎吉清末孫市川別當内膳源行光が寄進したものを保存されていることで有名です。過去帳は巻物で4巻からなっています。第1巻の最初に慈恵大僧正大和尚の名があり、安護院法印清覚、権少僧都平照、當寺文殊丸と続いています。中倉茂先生「武家政権鎮護の寺があった。北条時頼が造った平塩寺」とも呼ばれており、行基が創ったとも謂れています。天台宗の時、「天台百坊」と、謂われてたくさんの支院を持ち、広い地域に勢力を持っていたようです。修業の場であり、学問僧がいてお経本が作られていたようです。夢窓国師は、少年時代、このお寺で修業なさっています。このようなう由緒あるお寺でありながら、何時、いかなる理由で廃寺になったのか確かではありません。しかし三昩堂、薬師堂は、廃寺になってもあったようです。薬師堂は、天正10年(1601)、甲府太田町一蓮寺へ売られたと記録にあります。その頃の里謡に「妻が欲しくは一条へござれ、一じょやくしはつま薬師」と、古跡の廃するのを歎き諷したそうです。
 過去帳の箱の中に「新霊回向法名帳」が5冊あり、表書きには慶応などの江戸時代の年号や三昩堂の名や薬王寺・金剛院・宝寿院などの当番寺などが書かれています。これは、昔から平塩寺の末寺が毎年9月に会合して、残跡にあった三昩堂において1、7日法事を営み、引声念仏の行事をした記録です。