福寿院
 市川の中線六丁目の、夜桜で有名なところです。建物は江戸時代の終わりの火災「落合の大火」も潜り抜けた、214年も経つ、土蔵造りの珍しい建物で、梁間十一間、桁間六間四尺の平屋造りで、寛政庚戌年1790年31世憲如師が再建したそうです。壁は元より、垂木も漆喰で包まれており、雨戸となる引戸も土壁が塗られています。東側に観音開きの戸があります。七つの部屋があり上段の間、角の間、本堂、書院の間、広間が二つに仕切っています。
 廊下は、一間のケヤキの坂でできておりそれが十一間続いています。本堂は、ケヤキの板の間で、他の部屋は畳敷きです。床の間や柱は全部ケヤキです。書院造りの格子の細工も緻密で桟がしっかりとして、ふすまも狂いがありません。
 本堂の柱にはお寺の紋の菊の飾りがついています。市川が火災の多いのを十分配慮し、燃えやすいものは、建物につけないようにしてあったようで、軒下にも火が入らないように漆喰壁でかこってあります。外から入る入り口は、南に四つの戸があけられていますが、軒下が高いので、簡単な外付けの階段だったのを当代のご住職になってから、今の階段を付けたそうです。本堂の修理は、大正10年に行われたため、関東大震災も無事乗り越えられたそうです。その後、平成3年から4年に本堂内外壁・土蔵の壁と屋根修理、客殿(台所・トイレ・休憩室)新築、大師堂新築、本堂廊下等格子戸(木製)取り替えの事業が行われました。
 福寿院は1200余年前、平塩の平塩山白雲寺の支院、天台百坊のひとつで、元は、碑林公園の東側のあたりにあったようです。現在地には、貞和2年(1346年)に真言宗法印源秀僧正によって移ったそうです。寺に田地があり、穀物のお倉が、五つもあったのですが、戦後の農地解放で、田地を開放したそうです。
 お寺の南側にある大きな桜は、百年もの古木で、見事なしだれ桜です。盛りの時はライトアップされ、ラジオやテレビで放送されます。白壁のお寺が夜桜に風情を与えて、多くの方が見物にきます。
 東山天皇の弟に当たる伏見宮邦永親王直筆の「高学山」「愛宕山大権現」の額二つがあります。大納言の藤原基時卿、その子の基輔卿の立派な細工のお位牌もご本尊の左脇にあります。三人の方は、1700年頃に活躍されているそうです。寺の紋は、16の菊で、屋根瓦などにも刻まれているそうなので、高貴な方のご縁があるお寺です。
 ご本尊は、厨子に入っている毘沙門天様で行基作、客佛に、阿弥陀三尊立像(厨子入り)、市川の誇る座光寺南屏の篆刻もあります。境内には、正徳5年(1716年)に建てられた鬼瓦の細工が立派な地蔵堂(二十三夜堂)があります。その南側に石の観音像が三十三体新しく設置されています。
 お寺のお祭りは、「お三夜さん」のお祭りで、旧暦の一月二十三日です。昔は、市川では、一番早いお祭りで、だるまさんの屋台がたくさん並んだそうです。七月の第二土曜日の夜、祇園さんの日に「ローソク祭り」があります。七月のお盆さんで、仏様へお灯明をお供えするお祭りです。